■ 神 道 禊 教 ■

更新履歴
2016.02.07
2014.12.13


神道禊教の由緒

教祖・井上正鐡様

ご教祖井上正鐵様のご生涯 ・ 神道禊教の歴史 ・ 御祭神





 

■  ご教祖井上正鐵様  ■



父君 安藤真鐵大人肖像
(真傳記より)
 
妻君 安西男也刀自肖像
(真傳記より)
 
高弟 三浦隼人大人肖像
(真傳記より)
 
高弟 三浦知善刀自肖像
(真傳記より)
 
天保年間
立教当時の梅田神明宮
(真傳記より)
 
小伝馬町牢屋敷にて
村越正久の息子治郎一(鐵久)が
便所の汲み取り役に紛れ、
正鐵大人と対面した時の様子
(在島記より)
 
三宅島への船出の様子
妻男也様、
坂田鐵安ほか門人が
別れを惜しむ
(在島記より)
 
ご教祖様の時代(江戸時代)
三宅島の水汲み女たちの様子
(在島記より)
 
三宅島・伊ケ谷村后神社
(在島記より)
 
伊ケ谷村奥都城
(在島記より)

阿古村奥都城
(在島記より)


 教祖生誕 − 神道中興の祖の誕生 −

 神道禊教の創始者は井上正鐵(いのうえまさかね)様です。
 ご教祖様は寛政2(1790)年8月4日に江戸・日本橋浜町で生れました。

 国学四大人の一人、賀茂真淵の門人であった父安藤真鐵様の救世済民の志を
 己が志としお育ちになられ、若き頃より神・儒・仏の大家に道を求めて諸国を巡り
 求道の半生を送られました。

 甲斐の国の永田徳本派の医師磯野弘道に師事し医術を学び、
 さらに観相家水野南北の門下となり観相奥義も体得されました。

 神命直授  − 萬民救済の道への決意 〜 立教 −

 医者として人々を救う活動をする中、
 息と食とに根ざす運命改善の行を体得され、物を与え救うのではなく、
 人々の生き方を変えることによって自ずと助かる道を体得されました。
 そして父安藤真鐵大人の
 「祝詞の事を良く学び人に伝えるように」とのご遺言を受けて、
 神道教導者として道を究め行く覚悟と自覚を強く持たれるに至ります。

 天保4(1833)年、44歳の時、下谷池之端の秋元邸に住む老婆より
 神道の教説を聞き信心を授かります。
 それを機に神の夢に導かれ、
 天照太神の使いである采女より光る明玉を口から入れられ、神命直授を受けられます。

 神命直授により、神世より伝えられ、父君が遺言された神道の御教えこそ
 叢生安寧・救世済民の唯一至上の道と、ご教祖様は思いを定められ、
 翌天保5(1834)年、
 宮中祭祀を司る神祇官白川伯王家に入門され、神道の修行を積まれました。

 そして神明に仕える法、神拝式を学び、心と形の全てが整い、
 以後日本民族の中に綿々と継承されてきた神道の信仰をもって
 万民を救済し、民衆教化にあたる強い決意を固められます。

 江戸と京都の白川伯王家とを往復する道すがら、
 行きは東海道、帰りは中山道を通り布教をして行かれます。

 凡そ6年に亘る江戸と京都を往復しての修行によって、
 天保9(1838)年には白川伯王家の神職許状を受けて、
 天津祝詞太祝詞三種祓等の奥旨皆伝を受け、
 天保11(1840)年4月15日、
 江戸近郊の武蔵国足立郡梅田村の神明宮にて立教をされました。

 梅田神明宮の神主となったご教祖様は、
 神世から伝えられた神傳相承の神祇の道こそ、
 余すところ無く人々を救う唯一至上の道との確信を得て、
 神道の信仰による救世済民の活動に一層励まれました。

 当時、ご教祖様の教えを求めて、上は大名から下は無宿者までが
 毎日門前に市をなすほどに参集していたそうです。

 天保の法難 − 天保第一、天保第二の法難 〜 三宅島配流 −

 幕末の頃にあって、
 皇国祝詞傳を伝え、勤王の思想と大和の国風の復興を説くご教祖様のもとに
 余りに多くの人々が集まることを恐れた幕府は嫌疑をかけ、
 天保12(1841)年11月24日、小伝馬町の牢へと入牢を申し付けました。

 その時、ご教祖様の妻安西男也刀自、
 高弟三浦隼人大人、その妻三浦智善刀自も一緒に入牢を申し付けられ、
 三浦隼人大人は牢内にて帰らぬ人となってしまいました。
 ご教祖様は後に三浦隼人大人を「門中の鑑、教えの守護霊神」と仰せられ、
 その御霊は現在も教祖殿にご教祖様と共に祀られています。  

 翌年の天保13(1842)年2月16日に帰村を許されますが、
 平素教導している旨趣を提出するように命じられ、
 2日後の18日、問答体に書き記し寺社奉行へ差し出しました。
 それが本教の第一教典「神道唯一問答書上下二巻」となっています。  

 問答書を差し出すも、残念ながらその年の11月28日、
 ご教祖様は再度呼び出され、入牢を申し付けられました。
 牢に身を置かれても門人を気遣い教導する心は強く、
 牢内厠の格子越しに門人への指導をしたとも伝えられています。

 翌天保14(1843)年2月9日、
 ご教祖様の嫌疑は晴れることなく、新義異流と断じられ、
 ついに寺社奉行戸田日向守より遠島が申し渡されました。

 門人たちの懸命な赦免嘆願運動も成就せず、
 5月初め、三宅島への遠島が決定し、その月の25日、
 ご教祖様は、深川萬年橋橋詰より御用船八丈丸に乗船し
 三宅島へと旅立たれました。
 これらを神道禊教では「天保の法難」と呼んでいます。

 品川沖でご教祖様の乗る八丈丸が風待ちをしていると聞けば、
 男也様を始め門人たちは別れを惜しみ、
 一目でもご教祖様のお姿を拝見したいと品川まで出向き
 別れを惜しんだと伝えられています。

 三宅島での教導生活 

 5月25日、深川萬年橋を旅立たれたご教祖様は、
 6月7日夕刻、三宅島伊ケ谷村に着船されました。
 そして、足掛け七年に及ぶ三宅島での生活が始まりました。  

 当時の三宅島での生活は、水にも事欠く不自由なものでした。
 しかし、遠く大海原を隔てた三宅島へ渡られても、
 ご教祖様の門人たちを教え導く意欲は衰えず益々精力的に、
 本土の門中には手紙の往復によって教えを授け続けられました。
 その書簡が明治の時代になり「遺訓集全七巻」として編纂され、
 本教の第二教典となっています。  

 江戸に残された門人たちは、
 三宅島へと様々な物を送り、ご教祖様の生活を支えました。
 特にご教祖様から「寅君」と呼ばれ親しまれた松平宗秀侯(後の伊勢神宮大宮司)は、
 ご教祖様に十人扶持を送ったと伝えられています。

 その様に師弟の強い絆によって本土から送られてきた様々な物資を、
 ご教祖様は貧しき島民たちに惜しげもなく施し、
 又若き頃の諸国行脚の求道生活で得た知識を以て、
 貯水の技術や農作物栽培の技術を教えたり、
 医者でもあったことから病気の治癒をしたり、産婆の術を伝えたりしました。

 特に弘化元(1844)年5月
 島内に流行した痘瘡(天然痘)を全癒させたことにより、
 島民たちも心を次第に開き、ご教祖正鐵様の教えを受ける人達も出てきました。

 弘化2(1845)年、三宅島はひどい日照りに見舞われました。
 島民たちの強い願いにより、ご教祖様は、雨乞い祈願を引き受け、
 伊ケ谷村后神社に籠り、島民の為に断食の祈願を行います。
 1週間の後、水源地でもある泉津山へと分け入り、
 更に不眠不休の断食の祈願に入られました。
 その身を賭しての祈りは神明へと聞き届けられ、祈願十日目にして大雨が降り、
 島民達は歓喜して険しい山道を上り、ご教祖様を迎えに行ったといいます。

 この雨乞い祈願の成就により、
 人々からの信望はいよいよ篤くなり、ご教祖様の教えを聞く者も増え、
 島内に信心得道をする者も多くなりました。
 島民からの信望を多く集めたご教祖様は、流人頭にも選ばれました。  

 ご教祖様のご帰幽

 嘉永2(1849)年2月初め、ご教祖様はご病気がちになり床に着かれました。
 そして2月18日、御歳60歳を生涯として、多くの門人の崇敬を一身に集める中
 ご帰幽され、7年に及ぶ島での生活は幕を閉じました。  

 当時、流人は葬儀ができない定めでしたが、
 島の門中達の尽力により異例の葬儀が執り行われ、
 法号も贈られるという誉を受けました。
 そして、住居のあった伊ケ谷村と阿古村に、
 それぞれ立派な石の奥都城が建立されました。  

 神世の昔からこの日の本の国に伝えられた皇国祝詞傳を以て、
 神の御末なる人としての道を「まことの人になり給え」と教え、お導きくださり、
 大和の国風の復興に力を注がれたご教祖様は、
 広く「神道中興の祖」と云われています。


三宅島でのご教祖様
泉津山での雨乞い祈願の様子
(在島記より)
 
三宅島でのご教祖様
釣りをされるご教祖様
(在島記より)
 
  
 

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■  神道禊教の歴史  ■


 一教独立当時の神道禊教本院  建立当時の井上神社

立      教   天保11(1840)年 4月15日
井上神社鎮座   明治12(1879)年12月12日
一 教 独 立   明治27(1894)年10月19日


開祖 坂田鐵安大人


 教祖直門の活躍 − 文久の法難を経て 〜 草鞋掛けの布教 −

 幕府に嫌疑をかけられ、新義異流とされ、ご教祖井上正鐵様の遠島という法難にも、
 直門たちは屈することなく、熱心に布教活動を続けます。  

 ご教祖様から「末頼みある門人」と道統の末を託された直門高弟坂田鐵安大人も、
 その活発な布教活動によりご教祖様と同じく嫌疑をかけられ、
 文久2(1862)年に江戸処払いを受けます。
 それを神道禊教では「文久の法難」と呼んでいます。

 開祖坂田鐵安大人は、江戸処払いという法難にも屈することなく、
 ご教祖様帰幽の後、多くの直門の中にあって唯一、
 ご教祖様の足跡を踏み倣うべく白川伯王家に入門し、
 ご教祖様の学ばれた神道の奥義を体得され、
 以後、江戸足立郡保木間村の庄屋の身分を捨てて
 神道禊教の布教を全国に展開しました。
 特に北関東地方、東海地方、京都山城地方、岐阜美濃地方、房総半島には
 草鞋がけの布教を展開し、
 多くの門中(本教では信者の方々を門中と呼びます)を得て、組織づくりをしました。

 本院建立 〜 神道界の名門教団へ

 鐵安大人は息子安治大人と共に教学の整備にも取り掛かり、
 『神道唯一問答書』『仮名古事記』『婚姻例』『神葬祭の栞』『幼導訓』など、
 祝詞や教理教学についての書物、教育に関する書物など次々と出していきました。
 
 その甲斐あって、
 下谷西町(現・台東区東上野)に広大な敷地で本院を建立するに至ります。

 明治という新時代を迎え、
 大赦令により明治2年にご教祖様が赦免されたことと、
 開祖坂田鐵安大人の法難に負けることのない活発な布教活動の甲斐あって、
 瞬く間に信徒10万余を数える大教団となり、
 「西の黒住・東の禊」と称されるに至る教団へと発展いたしました。

 井上神社建立

 明治12年12月12日には、
 明治陛下からの
 「西の黒住には孝明天皇が名を許したから東の禊には姓を許す」との仰せにより
 「井上神社」の社号を賜り、ご教祖井上正鐵様を祭神とする井上神社を
 下谷西町(現東京都台東区東上野)に建立し、
 それを機に全国により一層の布教を展開して行きました。

 開祖帰幽

 国家神道体制の時代にあって、
 「吐菩加美講」の公称を許されてからは更に布教活動に邁進し、
 明治15年、開祖坂田鐵安大人は、神道禊教長を申し付けられ、
 「神道禊派」派名公称の許可を得て、全国への布教活動を展開する最中、
 明治23年、開祖坂田鐵安大人が帰幽します。

 一教独立 − 法難を越えて、国の公認神道教団へ −

 全国布教活動の展開中、残念ながら開祖鐵安大人が帰幽しますが、
 その息子坂田安治大人が道統を継承します。
 そして明治27年10月19日、明治政府から教派神道の一派として
 一教独立の認可を得て、晴れて国の公認の教派神道の一派、
 政府の公認神道教団として活動を許されました。
 これより後、公称「神道禊教」としての歴史が始まります。
 その初代管長には安治大人が就任しました。

 「神道禊教」の活動は、勢いを増し、
 往時は地方分院教会所数70余、教導職数2600名を有するに至りました。
 ご教祖様の立教からは54年、ご帰幽から45年の後の事でした。

 本教は、神道界の名門中の名門と云われ、常に日本宗教界の中心で活躍し、
 世界宗教界にも、世間にもその名を輝かせるに至りました。
 世界の宗教界で今日も行われている「一食献上運動」は、
 ご教祖井上正鐵様の「我、一飯を捧げて人の飢えを救うのこころ」
 の言葉と精神によるものです。



初代管長 坂田安治大人


二代管長 乾久三郎大人


三代管長 柴真住大人


四代管長 坂田實大人


明治12年頃
井上神社建立直後祭禮
 
東京・浅草分院 銅版画
東京・深川分院 銅版画
群馬・高崎分院 銅版画
 
関東大震災から復興した
本院神殿にて
秋季例大祭風景
大正天皇大葬禮奉仕へ向かう
四代管長と本院神官
大正初年頃 本院祖霊祭
 
 大正〜昭和にかけての
本院婦人部役員方


 本院焼失の法難 − 関東大震災と東京大空襲からの復興 −

 ご教祖様の立教から54年、ご教祖帰幽から45年の直門方の努力により
 教派神道の一教派に列せられた神道禊教に、またも法難が訪れました。

 教団の活動を更に展開するため、
 本院を商業地域の下谷西町から、世田谷に広大な敷地を以て移転させる
 計画が進む中、初代管長坂田安治大人が52歳で急逝されてしまいました。

 その息子、坂田實大人が幼少の身であった為、
 高弟乾久三郎大人、柴真住大人が管長職を継承しますが、
 その時に教勢は著しく衰えてしまいます。

 すると、山城分院と遠江分院の門中を中心として、
 「教勢再興は、宗家管長の下でなければならない」と、宗家継承運動がおこり、
 坂田實大人の成人を機に、坂田宗家による道統継承がされ、
 實大人が四代管長に就任されます。

 ご教祖神から「末頼みある門人」と道統の行く末を託された
 開祖坂田鐵安大人の血筋として、實大人はその精神を受け継ぎ、
 神道名門としての教団の教勢復興へ向けての活動を始められます。
 
 関東大震災
 
 しかし、天は無情にも再び法難という試練を教団に与えます。
 関東大震災による帝都焼失です。

 下谷西町の本院は悉く焼失し、ご教祖様直筆も焼失してしまいました。
 しかし、神明は一縷の望みを教団にお与えになられました。
 開祖坂田鐵安大人が建立した教祖奉祭の井上神社が奇跡的に焼失を免れたのです。

 四代管長坂田實大人は、井上神社を本院仮本殿として復興への歩みを進めます。
 禊教主神を奉祭する本院神殿を再建し、
 全国門中祖霊を奉祭する祖霊殿も復興しました。

 その頃、大正天皇崩御となり、本教は神祇官白川伯王家祭祀継承教団として、
 その大葬禮に奉仕をいたしました。
 復興された本院神殿を中心に坂田實大人は、
 教祖立教の本義たる「大和の国風復興」へ向けての活動をますます強めて行きます。

 東京大空襲 

 ところが、再び天は教団の行く末に大きな試練を与えました。
 自存自衛の国運をかけた大戦がはじまり、
 帝都も空襲の被害を受け焦土と化してしまいました。
 東京大空襲により再び本院神殿が焼失するという法難に見舞われますが、
 再び井上神社だけは奇跡的に焼失を免れ、
 社頭を以て本院仮神殿とする復興活動が始まります。
 
 戦後の教勢復興活動

 戦後の教勢復興活動の道は、財閥解体や農地解放といった占領国の政策により、
 国の政体も変わり、困難を極めます。
 本院神殿と全国門中祖霊殿の再建を目指して、
 實管長は門中丹誠に勤しまれましたが、その活動半ばにして急逝、
 時代は五代管長の時代へと移り行きます。



大正〜昭和にかけての
本院神官・采女方
昭和初期
稚児によるみそぎ音頭奉演
昭和初期
稚児によるみそぎ音頭奉演
昭和初期 巫女舞奉演
井上神社
井上神社炎上の翌年
 昭和50年4月12日斎行
井上神社例大祭・復興祈願祭
 12歳で管長職継代として、
副齋主奉仕をされた現教主
浄化委員会会長として
奔走をされていた頃の現教主
(20歳)


 教団中興の祖としての第一の試練 − 井上神社消失 〜 昭和の法難 −

 戦中そして戦後の激動の時代に教団復興を期して活動された四代坂田實管長が、
 昭和31年12月に急逝され、その子、坂田安儀が第五代管長に就任しました。

 時は高度成長時代。
 五代管長は、時代の流れに乗り、先ず地所の一部を売却して収益事業をはじめます。
 アパート経営と駐車場経営と土地貸業により、教団の経済的安定化をはかり、
 唯一残った井上神社を本院として整備を行っていきました。
 昭和48年、先代からの悲願であった本院神殿建築予定地にも
 収益事業のパーキングビルと参集殿を建築します。
 そしてその事業収益によって、国際宗教協力平和活動に参画して行きました。
 その結果、宗教界での本教の知名度は上がっていきました。

 しかし、その翌年の昭和49年11月27日未明、衝撃的事件が起こります。

 井上神社焼失

 関東大震災と東京大空襲による帝都消失にあっても奇跡的に焼失を免れ、
 本教の宗教活動を支えてきた井上神社が、不審火により全焼してしまい、
 ご教祖様愛用の品々と直筆の多くも社殿と共に焼失してしまいました。

 その後、
 この井上神社炎上とその再建をめぐり、本教は大きく動揺していくこととなります。

 井上神社炎上の翌年、
 昭和50年4月12日に斎行された井上神社例大祭・復興祈願祭に、
 現教主(坂田安弘師)は、5歳からの修行の結果、
 長老達の推挙をうけて12歳という若さでありながら管長職継代として、
 祈願成就を期して副齋主奉仕をされました。
 法難の中に神意を受けられた現教主(坂田安弘師)は、
 ご教祖様から「末頼みある門人」と道統の末を託された鐵安開祖の精神を受け継ぎ、
 現教主の教団中興の祖としての一歩をこの日から踏み出されました。

 昭和の法難

 井上神社再建活動は、
 土地貸業の収益事業が災いして、地方分院門中のお道に対する意識も希薄となり、
 復興奉賛金も予定額を大きく下回る結果となり、上野への再建が難しくなりました。
 すると、上野での再建断念と、地所売却による移転計画が突如浮上したのです。
 更には、行法の改革問題など、残念ながら教内が動揺する事態が発生しました。

 その解決のために、
 七代目宗家である現教主(坂田安弘師・当時19歳・管長職継代)は、
 全国信者から請われ、学生という身でありながら浄化委員会会長に就任し、
 一人問題解決へ向けての活動を始められます。

 道統護持と、先師の御霊門中祖霊を守る為、そして先代の改心を望み
 現教主は尽力されますが、残念ながら話合は決裂してしまいます。
 その結果、現教主は苦渋の決断を自らに下します。
 親子の縁をも絶ち、別派設立の道へと至ったのです。

 このような経緯により、「禊教真派」は栃木県に本部を置き設立され、
 神道界の名門と称えられた真の禊教の再興へ向けての活動が始められました。

 この一連の問題を、本教では「昭和の法難」と呼び、
 立教時代にも二度の法難(天保の法難・文久の法難)を受け、
 神道中興の祖となる為の試練を神からお受けになられたことから、
 現教主が教団中興の祖となるべくして起こった一度目の法難、
 父親に裏切られるという「子としての試練」としての法難と捉えています。



 
一教独立100年記念大祭
 
一教独立100年記念大祭
一教独立100年記念祝賀会
現教主によって整備された
栃木分院神門
第2回みちづけ大会


 浄化委員会活動 から 真派設立 へ

 浄化委員会による活動は残念ながら実らず、
 現教主(坂田安弘師)は24歳の若さで、
 昭和62年2月25日、北関東教区の4分院を包括し
 真の井上正鐵道統を再興するために別派を設立されました。
 栃木県栃木市の栃木分院教会に本部を置き、
 現教主(坂田安弘師)の苦難の宗教者としての道が始まりました。

 教団再興の為の活動は、着実に復興の歩みを進め、
 18分院を包括する教団へと発展し、
 真派設立の2年後、全国へ向けて道統継承宣言がされます。

 道統継承宣言をされ、宗家七代教主となられた現教主(坂田安弘師)は、
 平成の御世になり、「禊教新時代活動宣言」をし、
 新たな布教活動を展開していかれます。

 初学修行座の形態を「おみちづけ修行座」「産霊直修行座」と改め、
 それを機に「修行座教本」を教団史上初めて発行されます。
 更には、問答書や入門書、機関誌「みちづけ」の発行など、
 精力的に教内信仰の活性化を図っていきました。

 そして、平成4年には文部科学大臣所轄の包括宗教法人となり、
 門中数も真派設立時の3倍へと教勢を広めて行きました。

 平成6年には、道統を継承する証として一教独立100年記念大祭を執り行い、
 拝殿から前庭まで500名を超える門中が参列し、
 記念大祭を盛大裡に祭り修めました。

 真の井上正鐵道統の復興の道も進み、
 いよいよ世に新たな布教活動を展開し、未来永劫に亘る教団の礎を築くべく、
 井上神社建立から120年目の節目に当たる平成12年12月12日を目標に、
 教団名称を一教独立当時の「神道禊教」と改称し、
 教規並びに規則もより一層の充実をさせる改革の最中、
 天は再び道統の行く末に試練の法難をお与えになられました。

 現教主(坂田安弘師)38歳の時、再度、教団が動揺する事態に陥りました。

 教団中興の祖としての第二の試練 − 平成の法難 −

 平成12年の秋季例大祭の前日、
 教団本部を置く栃木教会が、突如本教を離脱を通知するという暴挙に出たのです。

 近隣の北関東四分院も次々と誤導され離脱をしました。
 私欲に目が眩んだ北関東教区の一部の役員や教導職たちが、
 自らの利益の為に多くの門中を誤導し退会をさせたのです。

 そんな混乱の中、平成12年の秋季例大祭は斎行され、
 法ノ子の裏切りを受けた現教主(坂田安弘師)は、
 深い悲しみの中に神明とご教祖神、そして全国門中祖霊の御前に額づき、
 新たなる誓いをお立てになられます。

 これを本教では「平成の法難」と呼び、教団中興の為の2度目の法難、
 法の子に裏切られるという「親としての試練」の法難と捉えています。



宗家親祭神殿遷座祭
宗家親祭神殿遷座祭
修行座
教主舞
鎮魂ノ儀
奉幣ノ儀
采女献饌
みそぎの舞奉演
外部講演会の様子


 法難を越えて − 原点からの再出発 −

 現教主(坂田安弘師)は、神殿も門中も失うという事態にも、
 その志を曲げる事無く祈りの生活に入って行かれました。
 たとえ一人になったとしても
 ご教祖様から「末頼みある門人」と託された開祖鐵安大人の精神を受け継ぎ、
 神様本位に立教の本義を守り抜き、信仰活動を続け、
 「禊教真派」という教団の名称を一教独立当時の「神道禊教」と改称し、
 道統復興を果たす事を神明に誓われたのです。

 現教主(坂田安弘師)は、昭和・平成の2度の法難を経て、
 21世紀の新時代布教の為、一私人としての幸せを捨て、
 ご教祖様生誕の街、原点の地からの再出発を決意されます。
 そして平成13年10月、ご神縁を得て東日本橋に本部教務庁が開設され、
 自らの継承した御教えのみを頼りに新たな布教活動が始められました。

 その信心堅固なる姿勢と祈りに徹する生活に、
 一人また一人と門中が集まって来ました。
 戻って来た代々の門中と、新たな直門の門中法ノ子と共に、
 真の道統の再興を神明に誓い、新たな歩みを始められたのです。

 平成12年、神明へのお誓いを果たし、
 明治27年の一教独立当時の教団名称「神道禊教」へと改称が叶い、
 京都山城分院を布教の場として新時代布教活動を展開、
 新たな門中法ノ子が信心得道をして行きました。

 教祖生誕の街に宗家親祭神殿を建立

 遠く京都まで法ノ子が移動をしての修行にも限界を感じられた
 現教主(坂田安弘師)は、
 「東京にも祈る場を」と、神明へ身を賭しての祈願をかけられます。

 その切なる祈りに神明も感応され、祈りの翌日、
 教務庁上階が空室となり、宗家親祭神殿建立祈願が成就したのです。

 建立工事は、代々のお付き合いをする業者の厚志を得て進められ、
 奇しくも井上神社建立の12月12日という御神縁の吉日に
 遷座建立の御祭を斎行し、昭和の法難から二十年の時を経て、
 まさに奇跡とも云うべき神明のお導きによる神業で、
 ご教祖井上正鐵様生誕の街に、宗家親祭の神殿建立が叶い、
 この新たな神殿を源泉として修行座が開催され、新時代布教活動が始りました。

 過去を未来へ繋ぎ行く
  
− 教祖神立教の本義にたちかえり 大和の国風復興の新時代布教活動 −

 ご教祖様ご生誕の街、東日本橋に
 宗家親祭神殿を得て、布教活動は力強く進められていきます。
 精力的に修行座を開講して、新たな門中法ノ子を生み、
 また神祇官白川伯王家傳継の十種神寶御法齋修会により、
 神道奥義を以ての魂の錬成を重ね、
 法ノ子たちは、唯神の心と式を学んでいきました。

 古式神事復興には、十種神寶御法の許しを得た者が必要です。
 その法ノ子、神教士(子)采女たちも育ち、
 いよいよ古式神事復興へと活動の展開も始まりました。

 現教主(坂田安弘師)が唯々神世の定めを守り、
 法難の中にも法ノ子の養成に心血を注いでこられたからこそ、
 古式祭祀復興の実現へと歩みを進めることができたのです。

 宵宮神事における、采女献饌や阿知女鎮魂行事、阿知女作法、天津神楽と
 祭祀は瞬く間に充実し復興されて行きました。

 教団法難の歴史に終止符を打ち、立教の本義である
 「大和の国風(くにぶり)復興」と救世済民叢生安寧の大願成就を果たすべく、
 現教主(坂田安弘師)は、法ノ子育成、古式祭祀復興に留まらず、
 暁鐘塾を開講され、広く一般の人達へ向けても大和の精神の伝道につとめられます。

 平成21年には、『読み解き古事記』を出版、
 更に世の中へ向けて「神世の心」の伝道を始められました。
 そして平成26年、道統継承宣言以来詠み続けて来られた和歌を纏めた
 『神道みちうた集』の出版もいたしました。

 本教は数多の法難の歴史を乗り越え今日に至りました。
 そして現在、本教は
 「当代教主は、教祖の生き方を踏襲し生きうつしたるべきである」との
 信条のもと実践的宗教者として精力的な活動をされる現教主(坂田安弘師)を師とし、
 その教団法難の歴史に終止符を打ち、
 立教の本義である大和の国風(くにぶり)復興と、
 救世済民叢生安寧の大願成就を果たすべく、
 原点の地ご教祖様生誕の街において歩みを進めています。
 神祇官白川伯王家祭祀を継承する真の神道禊教の再興のみならず、
 大和の国風(くにぶり)再興、大和民族の霊性復権、古式祭祀復興、
 日本神話伝承など、伝統に根ざした霊性主導の新時代へ向けて
 『新時代布教宣言』をし、広く積極的な活動を展開しています。

 


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■  御祭神について  ■

神道禊教神殿

本殿(主祭神)
祖霊殿(門中祖霊)            教祖殿(井上神社)


● 本殿


 中央の御殿には 主祭神を禊教主神(みそぎおしえのおおかみ)と申し上げ
 九柱の神様をお祀りしております
  


天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)

 天地自然の生命のもと 天地自然の意志として お祀りしております

高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)

 天地自然の意志のもと 生命を生む力として お祀りしております

神皇産霊神 (かみむすびのかみ)

 天地自然の意志のもと 生命の甦りの力として お祀りしております

天照大御神 (あまてらすおおみかみ)

 天之御中主神の意志を戴して 
 高皇産霊神 神皇産霊神の甦りの徳を具現する 
 まさに天の徳そのもの そして万物を育てる心そのもの
 天の徳をそのままに 降り注ぐ太陽の光の如く 地上のあらゆる命を 分け隔てなく育てる心
 それは子を慈しむ親の心の象徴でもあり その心故に大祖(おおみおや)とも云われます
 また 須佐之男神の暴挙により神の国 高天原は大いに乱れました
 それを受けて一大決心をし 天の岩戸にこもり「みそぎの法」を修め
 天の徳 大祖の徳を戴して甦った運命の甦りの証としてお祀りしております

伊那岐神 (いざなぎのかみ)

 人生の苦しみ 迷い 亡びからの甦りの徳としてお祀りしております

大国主神 (おおくにぬしのかみ)

 素直に逆らわず 天の徳をいっぱいに受けて育つ「地の徳」の象徴としてお祀りしております
 祖の慈しみを素直に育つ子の徳 子の心 育てられる心の象徴でもあり 感謝の心そのものであります

須佐之男神 (すさのおのかみ)

 慢心による亡びからの「みそぎ」による甦りの徳としてお祀りしております

祓戸大神 (はらいどのおおかみ)

 甦りの証 人々の犯す罪を 天の徳を受けて祓う力としてお祀りしております

産土大神 (うぶすなのおおかみ)

 人は皆 土地の神様の御蔭を受けて生きています
 社会性 助け助かる世の中 社会の和 平和の象徴としてお祀りをしております

● 教祖殿(井上神社)


 次(向って右側)の御殿には
 ご教祖井上正鐵神とご教祖神祖霊の神霊 ご宗家歴代管長の神霊を
 神々への信仰を導き ご神縁を結び 運命の甦りをお導きくださる導きの神霊としてお祀りしております
 (ご教祖井上正鐵様は
 明治天皇様より神道中興の祖として「井上神社」という御社号を賜わったことから
 今日でも「井上神社」の御社号でお祀りいたしております)

 教祖 井上正鐵神
 教祖遠祖代々神霊
 宇麻志道玉命  安藤真鐵翁命 
 千代玉比女命  井出千代刀自命 
 身曽岐柞媛命  安西男也大刀自命
 常世鏡比古命  三浦隼人大人命 
 常世鏡比女命  三浦采女刀自命
 正道磐着根命  坂田正安大人命
 可伶道功績大人命  開祖 坂田鐵安大人命
 勤志道弘治根命  禊教初代管長 坂田安治大人命
 継穂久々能知命  禊教二代管長 乾久三郎大人命
 継穂眞咲比古命  禊教三代管長 柴眞住大人命
 美豆實彦道守根命  禊教四代管長 坂田實大人命
  
 代々禊司乃大人等乃神霊等

 

● 祖霊殿


 末(向って左側)の御殿には 全国門中先祖の神霊を
 家庭 親子 親族の和の象徴 慈悲と感謝の目覚めの力としてお祀りしております
 本教では 祖霊を高天原の神の位へと霊神としてお送りし、お祀りいたします
 よって 本殿 教祖殿と御殿を一つにし 床の高さを同じにしてお祀りいたします
  

 
 

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